2014年5月3日土曜日

247:憲法記念日に寄せて:「歴史からは逃げられない・世界と分かち合える市民の闘いの年を」

 
「市民の意見30・東京」の憲法記念日意見広告。東京新聞2014.5.3.クリックで拡大
今日は日本の憲法記念日です。ところがこの戦後日本社会の最大の資産である「世界に誇る革命的平和憲法(小田実)」を、第二次安倍政権は集団的自衛権実現という手段で、骨抜きにしようとしています。
 安倍晋三首相とその内閣には、自らは全く自覚していないでしょうが、明らかにナチスの法学者であった→カール・シュミットのエピゴーネン(亜流)としての発想が見られます。
例えば世論と国会を無視して閣議決定で解釈改憲を謀ろうとしているところに、それが見事に出ています。民主主義を殺す行為です。
 この法学者のイデオロギーによる発想をお墨付きにして、当時は世界で最も民主的であったワイマール憲法は骨抜きにされ、最悪の独裁国家となり最悪の戦争犯罪の末、ドイツは道義的にも破滅しました。
 
 この経験により戦後のドイツでは「カール・シュミット的発想」は,例えば→ユルゲン・ハーバーマス憲法愛国主義「すべての人間にあてはまる規範を掲げる憲法を尊重せよ」とすると立場などからは警戒され、また最も厳しく批判されています。なぜなら、それは民主主義法治国家を内部から崩壊させるからです。この死に至る病が現在日本でじわじわと亢進しています。
 
 なぜそうなるかは、戦後の日本の平和と繁栄の両輪である、「歴史から学ぶこと」を忘れ、「戦争放棄という普遍理念の憲法」を骨抜きにしようとしているからです。その恐ろしさの核心を知識人も指摘できず、危機感も乏しいのが現実です。もちろんメディアも自覚できず、その多くが、むしろ煽っているのです。このままでは、必ずワイマールドイツの失敗の轍を踏み、日本は確実に自滅することになります。

 安倍内閣が→いかに歴史から逃げようとしているか、それがかつての被害国からは→「狂気の沙汰」とまで見られているかは、最近ここでも指摘したとおりです。

 以下のものは、本日東京新聞に写真のような意見広告を掲載した「市民の意見30の会・東京」発行の→『市民の意見』142号(2014年2月1日)に寄稿のため本年1月に執筆したものです。
 現在の日本が直面している危機を、上記のようにすでに体験した戦後ドイツからは、どう見えるかについての、ひとつの参考になるかもしれませんので、危機に直面する憲法記念日に写真も含めてそのまま以下掲載します。

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     歴史からは逃げられない
  世界と分かち合える市民の闘いの年を

                 梶村太一郎

 イデオロギーはひとを殺す

「今年2014年は、日本にとってとても重い年になりそうだ」とは、誰しもが考えていることだと思います。昨年秋の特定秘密保護法案の成立、年末の安倍首相の靖国参拝などで、ついに憲法改悪が具体的日程となる正念場の年となりそうです。

 こんなときには、本誌の読者なら、「小田実氏が健在なら、何を言い、何をするだろうかと」考えるでしょう。わたしもそうですが、最近、書き物をしていてふと小田さんの「イデオロギーはひとを殺すよ!」と吐き捨てるようにつぶやく声が、そんな時の苦い顔とともに甦るのです。

何時どこで、何の関連で出た言葉であったかは定かではなく、おそらくは何度も聴いたと思われます。30年近くも前の、当時の壁に囲まれた西ベルリンでは、だれしも過酷な冷戦の現実に日常的に直面せざるをえなかったのですから、ベルリンのビール談義(写真)でこの嘆息ともいえる作家の言葉が、しばしば漏らされても不思議なことではなかったからです。そして今、「このままでは靖国イデオロギーが、またもひとを殺し始めるのでは・・」と恐怖するわたしに小田氏のこの声が聴こえるのです。
小田氏(中央)と筆者(右)。左はインドネシアの活動家バスキ氏1993年10月25日

  小田氏流の表現をすれば、靖国イデオロギーとは「無辜の市民に武技を持たせて人殺しをさせて加害者にし、大砲や爆弾の餌食にされて被害者となったものを神と讃える」とでもなるでしょうか。(ちなみに、「大砲の餌食」という表現は、第一次世界大戦時の独仏間の膠着した塹壕戦で定着したことを最近知りました。当時は巨砲時代の始まりで火力が膨大化、塹壕に命中すれば死亡率は50%を超えたのです。そのため英仏など西部戦線の諸国の戦死者は第二次世界大戦時より多かったのです。)

 
 近い将来、平和憲法が改悪され、日本軍が世界中の戦争に動員されるようなことになれば、靖国イデオロギーは新たな戦死者という餌をえて、本当に再生してしまいます。では、そうさせないための対抗思想とは何でしょうか。
 
 戦争責任からいかに逃げたか

 ふたたび、小田氏の言葉を借りましょう。彼は西ベルリンで知り合ったあるギリシァの詩人の言葉を次のように述べています。
 
 彼と戦争責任からいかに皆逃げたかという話しになった。いかにもヨーロッパの小さな国の詩人のシンラツな目で語っていると思うんだけども、要するに日本は広島、長崎の「被爆」を持ち出して加害の責任を逃げてしまった。イタリアは反ファシズム闘争と反ナチスを掲げて土壇場でちょっと抵抗して逃げた。オーストリアはナチ・ドイツの合併をあんなに喜んだにもかかわらず、被害者面して逃げた。東ドイツは社会主義に鞍替えして逃げた。何も逃げる口実がないのは西ドイツや。一番かわいそうやと。鋭いことを言うなと思った。(『われ=われの旅』小田実=玄順恵 64頁)
 
 第二次大戦でナチスドイツの過酷な占領を体験したギリシァ人詩人の視点は、被害者のそれとして的をえているとわたしも思います。
 日本だけでなく、加害国はなんとかして責任を逃れようとするのが実情です。逃げ口実のない西ドイツにしても、国家元首が全ドイツ国民を代表して戦争責任をはっきりと宣言するまで40年かかっています。1985年5月の敗戦記念日のリヒャード・ワァイツゼッカー大統領の演説です。ギリシャの詩人の言葉がでたのは大統領演説の翌年あたりのことです。詩人は「やっと謝ったか」と思っていたのでしょう。
 
 演説からちょうど28年後の昨年5月に、ウィリー・ブラント生誕100周年を記念する催しで、93歳の元大統領の回顧の話しを聴く機会がありました(写真)。それによれば、ワルシャワゲトーで跪いたことに象徴される1970年のブラント首相の東方外交開始当時は、大統領の属する保守党内では、特にオーデルナイセ国境承認を巡る反発が大きく、そのため演説まで15年かかったとのことです。大統領自身は71年にブラント首相がノーベル平和賞を授賞したころからその意義を確信していたとのことです。
ワイツッゼカー元大統領と筆者。ブラント生誕100周年記念講演で。2013年5月7日
 
 10年ほど前のことですが、朝日新聞の大統領とのインタヴューに同行した際のことです。知日派の彼は、島国の日本と違ってドイツは欧州の中で最も国境の多い国であり、欧州同盟の実現により史上初めてドイツは敵のない国となったと熱弁を振るわれました。別れ際のわたしとの個人的な話で、「最近も日本を訪れ、中曽根康弘氏と会ったが、彼は超保守のままだね」と厳しい目つきの言葉が漏れました。大統領演説をした85年の8月15日、中曽根首相が初めて総理大臣として靖国を参拝して周辺諸国の反発を招いて以来、大統領も懸念されているのです。

 当時このふたりは日独を代表する同年輩の政治家であり、戦争責任に対する姿勢の差が、両国のその後の国際的信頼構築の格差を決定づけたことは、いまやだれも否定できません。昨年末の安倍首相の靖国参拝で、日本はついにアジア諸国だけでなく、歴史認識で世界の孤児になったのです。

 歴史から逃げ出すことはできない

 ところで今年は第一次世界大戦開戦100周年にあたり、ヨーロパでは、ちょうど5月におこなわれる欧州議会選挙を含め、その後の夏から秋にかけて多くの催しが行われます。すでに昨年秋頃から始まった英独仏語の関連出版物は数百冊に達しており、メディアの書評者が悲鳴を上げています。まさに『西欧の没落』(シュペングラー)をもたらしたこの大戦の体験をどう評価するかが、今年の最大のテーマとなります。

 一昨年の8月、ドイツのショイブレ財務相の話を聴く機会がありました。話題は当時の深刻な欧州金融危機です。わたしが驚いたのは、金融破綻国に対するドイツの厳格な財政要求の根拠として「第一次世界大戦時の赤字戦時国債の発行が失敗の元だ。ワイマールの破綻もナチスの台頭も原因はそこにある」と喝破する大臣の歴史認識でした。まさに百年の記憶が現在を規定しているのです。
 
 ワァイツゼッカーの後継者のガウク大統領も、就任以来歴史の犠牲者を追悼する巡礼に等しい旅を続けています(詳しくは筆者のブログ→「明日うらしま」第220。2014年1月3日の項を参照してください)。彼は開戦の8月3日にはオランデ仏大統領と共同で、独仏両軍におびただしい犠牲をもたらしたアルザスの旧戦線で追悼の行事を行います。歴史を正視することからしか和解も友好もあり得ないのです。
 
 安倍首相の靖国参拝に関して、中国の王毅外交部長は「中国は日本の侵略で3500万人の死傷者をだした」と訴えました。彼のこの言葉は、優れた知日派外交官の内心の悲鳴のように聴こえます。
 
 だれしも歴史から逃げることは決してできません。それは殺し殺されることを承諾することになるからです。殺し殺されることをきっぱりと拒否する。これこそが、わたしたちが遵守すべき日本国憲法にある対抗思想なのです。世界と分かち合える市民の闘いの年を生きたいと思っています。

 (かじむら・たいちろう/在ベルリンジャーナリスト 写真提供も筆者)



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