2013年9月6日金曜日

184:汚染水問題は「日本の制度的欠陥」から・南ドイツ新聞が論評で無責任体制を厳しく指摘

 このところ、世界中のメディアが、連日のようにフクシマの高度放射能汚染水の問題を非常に大きく報じています。ついには、「日本政府がここで470億円で汚染水処理に乗り出したのは、東京オリンピックの招聘が危なくなってきたからだ」との論調が、大きく報道されているように、世界の日本政府への不信はもはやそれ自体が危険水域をはるかに越えています。
 そこに、「南ドイツ新聞」は本日、主要論説(日本の新聞の社説に匹敵する)として東京特派員の厳しい日本批判を掲載しましたので、取り急ぎ以下翻訳します。
 同紙もここ連日、汚染水問題を報道した上での論説です。

なを、同紙のHPでは:→ Zu stolz für den Gesichtsverlust 

との別のタイトルで原文が読めます。 ネットでは関連が判らないので、リードの解説が付けられています。 本体のタイトルは下の写真のように以下のとおりです。------------------------------------------------------

        日本・制度の欠陥 

                      クリストフ・ナイトハルト 

 最近のフクシマ発電所廃墟でのだらしなさには責任者がいる:東電である。しかしながら、またこのカオスで得をしている者もいる:これも東電だ。この企業はもっと資金をもらえる。そして日本の政府はフクシマのカオスの共同責任を引き受けるつもりだ。これが東電を安楽にする。
 
 この電力会社は 回避できた三重の大事故(GAU:予測できる最大の原発事故=原文)に対する自分の責任を、決してまともに受け入れようとはしなかった。始めから、事故処理を場当たり的に、いい加減におこない、何よりも出費を押さえた。そのようにして汚染水のタンクをきっちりと監視することも怠ってきた。送水管の穴をガムテープで塞ごうとした。
 
 ここにきて政府は、問題処理に自ら着手しようと望んでいる。昨年はまだ専門諮問機関は反対していた:匿名の国家が責任を取るならば、だれひとりとして権限があると感じなくなるであろうというのだ。この分析は全く間違いとはいえない。そこで楽観主義者たちだけが、フクシマでは将来も十分責任が果たされるであろうと信じたのだ。

 国の最大の欠損:誰が責任を引き受けるのか?

 この場当たり主義の背後には、日本が核災害のあとで取り組まねばならなかった本来的な課題が隠れている:すなわち責任である。責任とは=古くから知られているとおり=社会的理解にとっての主要テーマのひとつである。安倍晋三首相は、第二次世界大戦で日本政府の名前で行われた犯罪に対する責任を、ほんの少しでも受け入れることを今日に至るまで拒否している。
  
 罪の告白は、日本の誇りがそれを許ず、面子を失うことであると理解されている。日本の(歴代)政府は何度も繰り返し、スキャンダルから逃避しようとしてきた。これは企業においても同様であり、東電でも何度も見られるとおりだ。

 日本は、まっとうなことであるが自らの技術者たちの功績を誇りとしている。ハイテクの世界で多くの貢献をしてきた。その間、国の社会技術者たちは、だれしもが場を得て、義務を果たす社会を築きあげてきた。そこではまずは、個人が度を超すことがない。でなければ、かれは社会から干され、排除されてしまう。この制度はすでに学校からはじまる。この規律が、列車が秒単位で走り、混雑の中でも誰も叫ばず、押し合いもせず、ほとんどゴミ箱がないのに、道路に紙くずが落ちていないことを可能にする。

 いったいこれほど義務感にあふれ、秩序立ったこの社会がそれと同時に、責任喪失者たちの社会であり得るのであろうか? 日本は厳しく序列化されており、それに加えて日本人は、かれらの個人環境=グループ、例えば会社と自己同一化する。個々人は値打ちがわずかである。特に日本の男性は、有利な条件にほとんど盲目的に従う。それが規則違反であったり、ごまかしであることが明らかであってもそうするのである。法と規則を柔軟に解釈し、グループへの忠誠の方がより重要である。違反が表ざたにならない限り、何も起こらない。
 
 日本の大企業の社員軍勢は自己責任を取ることはない。服従あるのみだ。それに日本の序列は、今ではワンマン経営者によってではなく、命令受領者としてのしあがった者によって指導されている。したがってそれぞれの権力の中枢では精神的真空状態が支配しており、国家もそうである。この真空は抽象的な想定で満たされている:日本人主義とか、東電精神とかによってである。このようにして日本の秩序のボスたちは、彼らの部下たちと同じく、「より高いもの」、例えば「東電の繁栄」に対して義務を負っている。

 このような頭部のない忠誠は、あの帯刀していた小貴族たち、サムライの伝統であると喜んで説明される。 サムライは、主に警察と治安役人として備えられていたのだが、日本の歴史的エリートとして美化されている。彼らだけが武器を携えることが許されており、彼らの管理のために盲目的忠誠が代償として要求されていた。

 第二次世界大戦後に、日本人はこの忠誠は、まさに武士階級から出たメンタリティーに相応するものであると吹き込まれた。例えばハーバードの日本学者、エドヴィン・ライシャワーの分析がそうである。日本人はサムライが殿様に忠義であったように、会社に奉公すべきであるというのだ。これを多くの日本人は今日まで信じている。
 
 このモデルが戦後の時期においても、また第一次世界大戦までは上手く機能したのは、ソニー、パナソニック、トヨタなどの当時の創成期の家長たちによって指揮されていたからである。彼らは部下がそれに奉公するだけのビジョンを持っていた。今では、わずかな企業にしかビジョンのある指導者はいない。他の大半は、東電もふくめて青ざめた、背骨のない、かつての命令受領者たちによって指導されている。そして、政治でもこの体制が継続しているのである。
            (2013年9月5日 『南ドイツ新聞』 主要論評 )

                      ( )内は訳注。訳責;梶村太一郎 

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 原文写真
Süddeutsche Zeitung 5.9.2013 S.4

コメントですが、要するに現在の日本の産業界、政界はビジョンのない空虚な頭に支配されており、責任者を喪失しているとの当然の批判です。
これほど厳しい日本社会批判は、近年稀です。これもフクシマ事故に対処できない日本に対する世界からの危機感の現れのひとつといえます。
 

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